福岡彩日記/カラーダイアリー

福岡の親と子の間をとりもつ潤滑油としてのカラー・色彩の話題を綴るブログです。時々福岡の地域ネタ、時々福岡の教育、時々福岡の女性のパーソナルカラーやファッションタイプ、色彩心理にについて書かせていただいてます。

(1)私のクローゼット履歴  20代〜30代篇

 




私の教員としてのスタートは、農村地帯にある学年1学級程度の小さな小学校でした。

保護者は、「我が町の小学校」という意識が高く、

若くても「先生」として敬ってくれる方が多く、

今の小学校現場では考えられない、自由でゆとりある教員生活を送っていました。

夏休みに学校で子供たちとキャンプをしたり、学習発表会では、

毎日、徹夜しながら台本を作ったり、

私は勉強を教えるというよりも授業以外のことに力を注いでいた思い出があります。

ある日、受け持ちの子供たちと雑談をしていると、一人の男の子から

「先生、OLは美人がなって、学校の先生ってそうでない人がなるんやろ。」

と言われました。

時は、バブル絶頂期、若いOLと言えば”平野ノラ”さながらの

ワンレン・ボディコン、ブランドバック、

小学生の男の子にとっても世間のお姉さん方は、

さぞ、きらびやかに見えたのでしょう。目の前にいる教員の私は、

「そこまで言わなくても…」

と、思いつつも、まんざら間違っていない、

この子の洞察力に大笑いしたのを覚えています。

その頃の私は、当時流行していた、ハマトラ(横浜トラッドの略)、

ニュートラニュートラッドの略)の服装で学校に行くような教員でした。

その当時、若い教員が多く、私と同じように、

現在の教員よりは自由な服装で学校に勤務している人がほとんどでした。

しかし、周りの年配の女性の先生の服装を見ると、

きちんとお誂のスーツを着て、ハンドバックを下げ、

ヒールを履いて学校に来られている方も多く、

教員としてのプライドや品格を醸し出していらっしゃいました。

この頃はまだ、教員という職業が「聖職」という意識があり、

年配の先生は、その意識が残っていらっしゃるように思いました。

私の服装は、若いとは言え、「教員」とい職業には相応しくない

服装だったのかもしれません。それから、私は、教員という仕事を意識して、

少しグレードを上げた服装に変え、ボーナスが出ると天神のデパートまで

洋服を買いに行くようになり、服を買うことがリフレッシュの一つとなって

いきました。